介護家族は 要介護者の介護 と社会の荒波(再就職先が無いし、短時間だけ預けるデイサービスを利用しているだけでも隣近所には冷たい目で見られる)と闘って本当に苦しい状態にいる。介護家族を助ける具体的なサービスも必要だし 心の中を聴いてもらえる場が必要だ。行政は介護だけではなく介護家族に対してもテコイレが必要だし、それらをボランティアで責任の無い形で賄おうとするのではなく 利用する度にお金を払ってでも 頼れる場所が欲しいと願っている人は多いと思う。介護中あるいは介護卒業生の貴重な体験を活かした介護家族へのケアを行政が行うことが今とても必要とされている。ケアマネージャーは要介護者のコーディネイタ。どちらかというと施設側の仕事で介護家族の立場に立ったケアで要介護者についてまでは出来ていないのが現状。介護家族の悲鳴に耳を傾ける場。介護家族のしゃべり場が求められている。
私の経験からも 自分の今の気持ちを言葉に出し共感してもらえるだけで 介護のストレスからかなり解放される。また明日から何とか介護を続けていこうと思えるようになる。それは知り合いの 介護経験者・介護中の知り合いも同様のことを言っているから 多くの人が同じ思いをしているはず。
昨今働く女性のワークライフバランスが叫ばれているが 行政は介護家族のワークライフバランスにも目をむけてもらいたい。
また介護家族の負担軽減に目を向けることで 介護施設に預けることが少なくなり行政の負担は軽減される。そして介護家族の経験は在宅介護者へのフォローという重要な役割の仕事が創出されることになり 介護の終わった後に路頭に迷う人も少なくなると思う。
家族構成の都合でむを得ず一人で 親の介護をしなければならない人が多いと思う。大学を卒業してからずっと働き続けてキャリアを積んできたアラフォー・アラフィフつまり40歳少し前から50歳少し過ぎの年代の人は男女雇用均等法が始まり総合職の先駆者として突き進んできた女性たちの年代。一人っ子が多くや兄弟がいても2人程度。
そのような年代の人間が 介護をしながらの仕事が難しくなり 両立をしてもたもののどちらも中途半端で体力も続かず 仕事を辞めて介護に専念。しかし決断をした時点でかなり重篤化していて坂道を転げ落ちるがごとく要介護度が上がり介護しきれなり施設に入れるようになる。また在宅で専念して看ていたけれども 看切れなくなって施設にようやく入れたので資金稼ぎに働こうと思っている人も多いはずだ。(安いところは何年ごしの順番待ち。比較的入りやすいところは最低でも1か月に20万円はかかる)
介護というものは様々なものにお金がかかる。 肌着一つでも買って着せて見たら袖繰りが工夫されていても今の体の動きには脱ぎ着がしにくいとか 大きめが良いかと思いパンツを購入したら 足回りは良いけれどもウェストの部分がブカブカで落ちてしまうとか。そのようなことで買い替えが多く無駄なものをたくさん買わなければならなくなる。介護を要する人の身の回りの物は試着なしで購入しなければならないので 本当に出費が多く仕事を辞めない方が良かったと後悔する人も多いだろう。
一度仕事を辞めてしまうと 40~50歳前後で再就職は難しい。さて仕事につこうと思うとブランクと年齢が足かせになる。これが独身の一人っ子男性が同様の状況の場合 女性とは異なり性差による介護というものへの負担も異なるであろう。そして親が逝った後にはどうやって生きていけばよいのか。妻がいれば妻の収入で何とか生活が出来るかもしれないが。
お母様がパーキンソン病で 介護にはほとほと手を焼いている人がいる。もともとお母様とは性格が合わず 何十年も話をしてこなかったという。そこへきて介護。だからといって そりが合うわけでもないし会話も成り立たない状態で介護がとても大変だという話をしてくれた。
彼女は介護しきれなくなり お母様には現在施設に入ってもらっているという。デイサービスの車が自宅の前に来るだけでも 近所の人から介護放棄 とみられる傾向があると彼女は言う。私も同じような体験をしている。結局、近所の人にはお母様は入院中ということにして施設に入ってもらっているらしい。周囲の目はおそろしい。
よく 家族には歴史があると言われているが、自分が体験するまでその意味がわからなかった。実際に自分が介護してみると 歴史という意味が嫌なほど実感し いろいろな記憶がよみがえってくる。
要介護者を病院に連れ行くことは大きなイベントで 介護家族はその1日は 順番取りや送迎車の手配・送迎で疲れ果てる。これは在宅介護でも施設に入所していてもこの大変さは変わりは無い。
病院に連れ行った翌日は 疲れ果てて動けなくなっていたことを思い出す。病院の順番取りをしてもらえる代わりの人がいれば。あるいは要介護者の場合は順番をとらなくても診てもらえるシステムがあればと思う。
今年もまた 何をすることもなく 1年が過ぎようとしている。
今年は 不況の嵐の波をまともに受けた1年だった。
その影響から 気になることがいくつかある。
なかなか就職先が決まらないこと。6枚組の履歴書用の写真を3~4回は撮影し すべて無くなったから 履歴書は20通は出したと思う。
二つ目は 家族ぐるみでつきあっている知人が 親戚の経営している会社から急に解雇され 自死したこと。それに波及して 残された彼の妻である知人が 直前までの夫との関係・会話が原因なのではないか。なぜそのような状況を受け止められなかったのかと自分を責め悩んでいること。
三つ目は やっと就職出来たインプラント会社の売り上げ不振から 契約期間内に解雇されたこと。
来年は 安定した仕事を得たい。
そして 今年の経験を活かし 自己実現にむけて努力したい。
考古学研究所でアルバイトをしたことがきっかけで 縄文土器にはとても興味がある。
今回行ったのは 中央高速の釈迦堂のサービスエリアにある釈迦堂遺跡博物館。
日本で出てきた土偶の半分がこの付近から出土したらしい。
今まで主に東京都や神奈川県から出土したものを見てきたが 山梨県付近のものは今まで見たものとまた異なる紋様であった。もちろん手作りなのだから それぞれの個性があるわけで紋様が異なるのは当然だと思うが その作り方を伝承するわけであろうから 地域ごとに特徴が出てくるのだろう。
今回見たものは人間の顔の形をしたものや蛇がとぐろを巻いたような形の把手(とって)がついたもの。また口縁が立ち上がった水煙土器(すいえんどき)があった。水煙土器は今まで本でしか見たことが無かったのでとても感動的だった。
入場料はおとな200円 こども100円。釈迦堂サービスエリアから階段で2~3フロアぐらい(?)上がったところにある釈迦堂遺跡博物館。
私は 勝沼で降り 一般道および側道を使って博物館の駐車場に停めて見てきた。
国宝重要文化財を所蔵している。
子ども向けにパンフレットもたくさん用意してあり とても親しみやすい構成になっている。
駅から1分の駅前ビジネスホテルに泊まった。ベッドはセミダブル。窓は広め。トイレもついていうユニットバス、大きな窓がついている、夜景を楽しむ人にはうれしい窓。シャンプーとボディシャンプーは備え付け。ドライヤーももちろん備え付けで無料。テレビももちろん無料。小さめだが冷蔵庫がついている。湯沸かしポットに湯のみが一つ。緑茶のティーバックが1つついている。インターネットは使い放題。パソコンを借りる場合は1日千円。歯ブラシ&歯磨き、使い捨てシェーバー、タオルが3種類ほどついていた。これで4千円代。安いと思う。
朝食はバイキングでパンかご飯。ソーセージ、オムレツ、きんぴらごぼう、サラダ、納豆、魚のあら煮、焼き魚、アサリのお味噌汁、コーヒー・牛乳・ジュースと品数は少ないがそんなものだろう。
少し戸惑ったのが夕食だ。これもバイキング。サラダ、トリの唐揚げ、ソーセージの炒め物、ソース焼きそば、キャベツの炒め物、肉じゃがのカレー味、お麩のお吸い物。お昼はへぎ蕎麦とてんぷらだったので、もう油ものは食べたくないし、このメニュー。食べたいと思わせるものが無い。
一番おいしかったのは、お茄子のお漬物ときゅうりのお漬物。東京では見たことが無いほど大きなお茄子の丸ごとの水ナスのようなお漬物は絶品だった。きゅうりのお漬物はきゅうりをただ半分の長さぐらいに切っただけのような大きさ・形のもので、私の中ではナンバー2。海の近くなのでお刺身を期待していた知人達はずっと文句を言っていた。ホテルの団体旅行なので私は期待していなかったのが幸いした。あんなに文句を言うほど期待をしていたのか。逆に驚いた。なぜかというと、さほどお金を出していないツアーだったので私は期待していなかったから。とにかくお茄子ときゅうりのお漬物には本当に助けられた。おそらく5本ぐらいずつ食べたと思う。
帰りがけに市場に寄ったら、夕食で食べた東京で見たことも無い太い茄子ときゅうりが大安売りしていた。どうやらここらへんの特産品のようだ。思いがけないところでおいしく特産品を食べられたわけだ。
柏崎駅前通りには特産品を売っているお土産屋さんがある。
駅から一番近いところにあるお店は明治饅頭・ちぢみ餅で有名な美埜屋さん。明治饅頭もおいしかったが揚げ饅頭(食べてみてわかったのだが、明治饅頭を油で揚げたものだった)が私の好みだ。周りがカリカリしていてドーナツのお饅頭バージョンという感じでおいしかった。この明治饅頭は小判型で白い色で見た目が薄皮んじゅうに似ていたが、中の餡が白餡で少々想像とは違っていた。通常揚げ饅頭など「どうせ余りもの」という感覚で買わないのだが、明治饅頭が売り切れていたため購入してみた。あまりにおいしいので翌日の朝、駅の隣のコンビニのおみやげコーナーで明治饅頭を買って帰ったが、やはり揚げ饅頭の方が私の好みだった。
ここではちぢみ餅という求肥、東雲という餡をパイで包んだお饅頭のようなものを買った。
いずれも東京で買うものより3割以上は安い。それでいてさすがに新潟。非常においしい。
因みに イトーヨーカドーの求人は770円だった。東京と比べていかがなものだろうか。
柏崎土産と言えば、明治饅頭の美埜屋さんの先にある新野屋さんのおせんべい、網代焼。小さな魚の形をしている。大きさは金魚ぐらいの大きさ。駅の隣のコンビニでは210円で売っていたが、前日にイトーヨーカドーで185円で購入。少し得した気分。
残念ながら柏崎には新野屋さんの閉店時間後に到着し、開店時間前に出発したのでお店で購入することは出来なかった。少々残念だ。
ホテルの朝食前、皆が寝ている間に駅周辺を散歩し、駅の隣のコンビニで笹団子、明治饅頭を購入した。なかなか有意義な時間を過ごせた。新潟駅までどのぐらいの距離があるのか路線図を見てみた。距離はわからなかったが千何百円もしていた。結構遠いようだ。映画を見に行くのも新潟だとすれば、かなりの出費になる一つのイベントになりそうだ。
2007年にあった新潟県中越沖地震の爪あとは見られなかったが、昔ながらの住宅は無く新しい住宅が並んでいた。車で10分以内の所にも家は建っていたが、昼間でも住民の方の姿を見ることは無かった。
柏崎刈羽原子力発電所と言えば、関東圏の人であれば聞いたことの無い人はいないと思うが街には人影もみかけず、閑散とした町だった。発電所従事者らしき人の姿を見るのみ。柏崎駅前通りやイトーヨーカドー店内でも付近の住民の方の姿を見ることは無かった。もっとも駅前の商店街も夕方6時をもって閉店という土地柄。そのようなところなのだから、唯一開いているイトーヨーカドーとはいえ、お客さんが入るはずのない時間帯に行ったからなのかもしれない。
仕事場と家の往復は車ということなのだろうか。人との触れ合いは駅前のおみやげやさんとの一時だけだったのが少し残念だった。
柏崎刈羽原子力発電所の敷地内は無機的で、ロケット打ち上げ基地のような感覚だ。広い敷地の中には銀色や白色の構築物である空気取り入れ用の高いタワーや発電所がポツンポツンと並んでいる。
化学工場の見学に行ったことがあるが、敷地の中はまさに工場そのもの。まさに電気の工場であることを実感する。
化学工場と異なるのは、建物の中である。化学工場はオートメーション化が進んでいて、ベルトコンベアーはもちろん 中で移動しているのもロボットだった。広い工場の中に一人か二人しか人がいなかったことを記憶している。しかし原子力発電所では点検作業中・耐震工事中ということもあるのだろうが、人の手に支えられて厳重な点検がなされているという感じがした。
さほど大きくない送電用の鉄塔が並ぶ柏崎刈羽原子力発電所付近だが、さすがに発電所付近にある鉄塔の数が少々多い。しかし当たり前とは言えば当たり前なのだが、発電所の向こうは海ということもあるが向こうには鉄塔が無く、発電所からひたすら東京方面に向かって鉄塔が並んでいる。
まさに電気の源という景色を 発電所から離れてみたときに実感した。
新潟でまこもたけを購入した。イネ科の植物らしい。若々しい緑色で サトウキビのように細めの竹のような形状。
早速調理をしてみた。素材だけで十分に甘みがあっておいしい。どこかで食べたことのあるような でも初めての食感。
せっかくなので レシピをご紹介します。レシピ紹介デビューです。(とても簡単ですが)
まこもたけのしょうゆ炒め
①まこもたけを短冊切りにする。
油でほんの少し焦げ目がつく程度炒める。
②ダシにしょうゆを入れてからめる。
片栗粉を溶いても風味ががある。
柏崎刈羽原子力発電所の名前の由来は、柏崎市と刈羽郡にまたがっているため このような名前になっているらしい。
柏崎市には1号機から4号機まであり、刈羽郡には5号機から7号機まである。
いずれの自治体にも税金が公平に落ちるように、柏崎市にある1号機を動かした後には2号機を動かすのではなく刈羽郡にある5号機を動かすそうだ。
現在は点検中だが、新潟県にある発電所だが自らが使用するのは東京電力で発電した電気で、何らかの事情で発電出来なくなった場合には、いつもは送電している送電線をつかって、他で作った電気を送電を受けてまかなうそうだ。
発電所の近くにある送電用の鉄塔はさぞかし大きいのかと思いきや、我が家の近くにある送電線とはさほど変わらず、かえって小さいようにも感じた。
放射能漏れを防ぐため 発電所の炉のある部屋に入る前に エレベータを思わせる箱の中に入る。
入り口と反対側に出口がある箱だ。中に放射能が漏れている場合に外に出ないようにということで、炉のある部屋と外気圧よりも圧を下げてある。そこの境目がその箱だ。
片方のドアが開いている間はメロディが流れていて、閉まると音が止まる。それを合図に指差し確認でスタッフの方の「よし」という声とともに反対側の出口のドアを開ける操作をする。
新潟県の柏崎刈羽原子力発電所の3号機の中を見学してきた。見学できるということで応募したのだが、想像をはるかに超えるものものしさ。ヘルメット・ブルゾンを着用し、軍手に靴下を軍足に履き替え、静電気防止のため袖口は軍手の中にズボンの裾は軍足の中に入れ放射線カウンタを首からぶら下げて入場した。
入場前に免許証で身分証明をする。そのあとバスに乗り込み、案内してくれる社員さんはバスの中から身分証明書をバスの中から高く掲げ、バスの大きな窓の外に向って掲示する。
入場後は空港にあるような金属探知機のゲートを通り、入場許可書でゲートを2回通過し、手のひらを箱の中に入れてスイッチを押すとゲートが開く扉を通り入場。
警備の厳重なことはさほど聴かされていなかったので、大変なところに来てしまったものだと少々後悔しながらの入場だった。あまりの緊張に、ここまでですでにかなり疲れた。
ここ一カ月ほど 色々なことがあり ブログをお休みしてしまいました。
その結果・・・
ひょうんなことから 会社の人とランチ会をすることになった。
神田神保町にある洋食屋 らんちょん。
ランチセットを6人で行って 6人とも皆 同じランチセットを食べた。
とろ~りとろけるチーズののったハンバーグとホタテ貝のフライ。
チーズの溶け具合がとてもおいしいし、
フライはいつも衣がパリッとしていて中がふんわり。
このバランスがとてもおいしい。
これにスープと山もりのキャベツの細かい千切り
それにサーティーワンアイスクリームを連想させる 真ん丸なポテトサラダ。
平らなお皿に山もりご飯。
お店が神保町の古本屋街の向かい側にあるので
古本屋を訪れる人の様子を二階のガラス越しに眺めることができ
なかなか面白い風景。
一人で行っても退屈しない。
ランチビールというのも置いてあり
昼間からのんびりできる人には
おいしさと風景で とっておきの時間を過ごせる。
神保町あたりではワンコインランチで味・ボリュームとも満足させるお店が軒並みだが
ランチセットに千円を出しても 高いとは思わないとっておきの時間が過ごせるはず。
およそ20年ぶりに 八ヶ岳赤岳ふもとの美濃戸山荘に行ってきた。
当時は 床の傾いた離れで夜遅くまで久々に会った友人と喋ったものだ。
今回は その傾いた離れの取り壊されところが駐車場になっていたので 駐車スペースが広く平らになり車が非常に停めやすくなっていた。
全体的に広く明るくきれいになった美濃戸山荘だが 以前は食べられないほどのおかずが出て 山小屋とは思えないほどの上質かつ多量のおかずだったが 今は以前とは経営者も変わり 食べられる程度の量のおかずとそこそこの質のおかずに変わっていた。ちなみにご飯食べ放題、お味噌汁、てんぷら、お魚、食べ放題の切干大根と冬瓜の煮物、野沢菜がテーブルの中央にあり 各自で取り分けて食べられるシステム。手元のおかずはそこそこだったが、中央のおかずはとてもおいしく昔を思い出した。
相変わらずお風呂の床と湯船は傾いていて お風呂のヘリをしっかりとつかんで湯船につかり 滑りやすい傾いた床を用心しながら移動した。
1泊9800円。部屋での飲食禁止。消灯時間もあるのでいつまでも喋っていることは出来なくて 自由度の激減した宿泊だったのは残念だった。とはいえ一緒に行った人たちは 食堂から部屋にこっそりと湯のみ茶碗を持ち帰り こっそりと持ちこんだビールを こっそりと飲んでいた。翌朝はもちろんその湯のみ茶碗をこっそりと食堂に返した。
美濃戸山荘には思い出がいっぱいあり 懐かしかったが 我が家の車いすを乗せられるようになった車高の低いウェルキャブのシエンタには 美濃戸山荘はいばらの道だった。舗装道路から通常車で30分ぐらいのところにある美濃戸山荘だが 未舗装の岩があちらこちらに飛び出した道を4人乗りで走ると 車のお腹をする。そのため 後ろの席の二人は車を降り 車高が下がらないよう行きも帰りも50分ほど徒歩で舗装道路と美濃戸山荘の間を歩いたのだった。
以前は四輪駆動で車高の高くなる車で行ったので気にならなかったが 今回はそんなわけで運転にもかなり気をつかっていた。セルキャブのシエンタでオフロードを走るようなところはしばらく無いだろう。
神保町から水道橋方面に歩いて3分ほどだろうか。
ワンコインでランチが食べられる「ベジタリアン」というお店がある。
私が行った日は、ハヤシライスか鳥の空揚げ定食の日だった。
どちらを食べても500円。
それにコンソメスープと山もりレタスのサラダがついてくる。
私の食べた空揚げ定食には 大きな鳥の空揚げがあ5つと山もりのスパゲティマヨネーズサラダがついていた。私は最初からご飯を半分にしてもらったが それでも十二分の量だった。
お店廻りをしている間に 体重があっという間に増えそうだ。こわいこわい!!!
いろりで煮るおいしい猪鍋とお鍋の周りで約猪肉と牛肉の焼き肉、、きのこ、山もりのサラダ、お豆腐。それにおうどんとお餅が両方食べられないほどたくさんつきでなんと3千円。
本当においしくて安い。
東京なら5千円を出しても食べられないお味とボリューム。
お店の名前は「やまおく」というお店。佐久市にある。
佐久と言えば 鯉で有名だが このお店は穴場的なお店。
3年ほど前に改装をしたそうで 店内は随分と広くきれいになっていた。
以前は本当に辺鄙なところにあったお店で 何回行っても迷っていた。
だが今回はあちらこちらに看板もつき わかりやすくなっていた。
お店の周辺まで住宅が建って少々様子が変わっていたが
店の中からの景色は全く変わらず 相変わらず下の畑の風景はのんびりとさせてくれる。
猪料理「やまおく」は佐久市新子田
0267-68-0676(月曜定休)
おすすめのお店です。
交通費を出して行っても絶対に損はしません。
今なら週末高速料金も安いので とてもとてもお得です。
是非一度 訪れてみてはいかが?
太陽のトマト麺 というラーメン店でラーメンを食べてきた。
ラーメンと言っても 麺は細ーい細いパスタ風。
スープは鶏をベースにしたトマト味がしっかりしている。
太陽のラーメン 730円
私の食べた 太陽のチーズラーメン 830円 は文字通りチーズがのっていてスープパスタそのものだった。
アツアツが出てきて 本当においしかった。
最後に残りのスープにご飯を入れて食べることをすすめられたが ラーメンだけで満腹になり食べられなかった。 スープはすべて飲んできたが スープを家に持って帰り夕食時にご飯を入れて食べてみたかった。
(リンクはこちら http://taiyo-tomato.com/menu/)
蓼科に行ったついでに 三井の森の近くの尖石考古学博物館に行ってきた。JR中央線茅野駅よりバスで20分。中央自動車道諏訪インターから車で30分のところにあり 駐車場が広く利用しやすい。
1万3千年~4千年前の土器や石器が多く並んでいた。本で見るような緻密な素晴らしい造形のものがたくさんあり 東京近郊の博物館では見ないようなものがたくさん陳列してあり感動した。1万年前だから稚拙なのではないかと思いがちだが 目からウロコが落ちること間違いなし。
縄文時代の暮らしを体験するコーナーとして衣服や木の実を粉にする道具、土器に文様をつける道具の実践が出来た。また土器を自分で作る体験ができるコーナーも様々な年代の人が1日楽しめるような工夫がされていた。
外に出ると復元住居や尖石遺跡があった。遺跡の坂の下のほうにはこの遺跡の名前の由来でもある尖り岩という大きな岩があり 信仰のシンボルであったという不思議な形をした尖った岩があった。
観覧料は大人500円 高校生300円 小・中学生200円
八ヶ岳に行ったので ついでに足を延ばして美ヶ原高原美術館に行ってきた。蓼科から1時間半ほどかかり ついでというにはかなりの距離と時間がかかった。箱根の彫刻の森美術館も広いが、美ヶ原高原美術館はとにかく広い。外には彫刻が多数あり 美術館もたくさんあった。ここの作品もさることながら ここから見る山々は素晴らしい。360度山々に囲まれ 八ヶ岳はもちろん富山方面まで望める絶景ポイントだ。お天気に恵まれ 雲一つない晴天の午前中だったので空気も澄んでいて パノラマは素晴らしかった。
入場券は大人1000円。少々高価だがハイキングコースのようなところもあるので お天気さえ良ければ芸術鑑賞だけでなく1日中楽しめる。歩きやすい靴で ハイキングをするような格好をしてお弁当を持てばどこでも食事が出来てより一層楽しめると思う。
因みに我々は芸術鑑賞だけをしたが 途中から疲れてきたので80%ぐらいだけ鑑賞して帰ってきた。歩き続けること2時間。お弁当を食べたりハイキングをしたり休憩をしたりすれば最低でも4時間はかかるだろう。
自然と芸術を堪能した半日だった。
我が家は 新聞店にもらったご招待券で入場し お弁当も持参していたので フジサンケイグループには300円のソフトクリーム代をお支払いしただけの経済的なイベントだった。
5月末に自死を選んだ友人の家族と 八ヶ岳に散骨に行ってきた。
プロポーズされた場所 二人が一緒に登った場所 我々家族と一緒に泊った懐かしい場所などあちらこちらを廻りながら 思い出を語りながら思い出の場所に散骨をしてきた。
22年前 友人は八ヶ岳行きのために前の晩に徹夜をしてTシャツにプリントをしてくれた。プロだけあって とてもセンスのあるデザインで思い出がある。古いティーシャツはかなり捨てているのだが それだけはどうしても捨てられず大事にとってあった。そんな日が来るとは思ってもいなかったが 大に取っておいて良かった。散骨の時には我々夫婦はそのTシャツを着て 山々を廻った。友人の妻も懐かしそうに私たちの着ているTシャツを眺めていた。
マナーとして 他の人にわからないようにレジャーの人から見て違和感の無いよう普通の登山の服装で。またレジャーで楽しんでいる人から見えないように でも堂々と散骨してきました。忘れず土をかけ 大好きだったお酒もかけてきました。
今月も25日締め5日払いのお給料が10日になってやっと振り込まれた。
蒲郡の本社は5日に支払われているらしい。
東京にいる顧問も当初は少々遅れ気味で 交渉して5日払いになったらしい。
われわれ入社3カ月以内の新人6人はこぞって10日払いだ。
振り込みが遅れるのは銀行間の問題であり、本社は5日に処理をしているとの一点張り。
そういうものなのか?
新人グループの一人の男性は お給料の交渉が入社の期限に間に合わず なし崩しで入社となったらしい。
そして以前の半分の給料になり 20代の子どもより給料が安くなってしまったとのこと。
新製品の開発から発売にいたり まさに売り出そうという新規事業のスタートラインについたばかりのところで 経費がかかりすぎると 営業活動や営業の出張にブレーキがかかっている。マンパワーのある本社のあるおひざ元で営業をすればもっとも経費がかからないのだろうが 全く売ろうとする気配がない。
ましてや部長は地元の歯科大学を卒業で 同級生や知人がたくさんいるであろうが そのネットワークすら活用できないのだから 名古屋での売り上げは絶望的だ。
当事業部の部長は社長のご子息だが おっとりしているが事業を進めようとすると経費のことばかり気にしてブレーキをかける。新製品開発までに十分費用を費やしてきたわけで ものを売るには経費がかかる。今は事業再建ではなくスタート時期。しばらく続くであろう赤字を防ぐには いっそのこと売らないほうが良いのではないかと社内で話している。
歯材のメーカーではあるが問屋のような仕事をしていて こちらが頭を下げて買ってもらうという習慣が社内にはないようで 材料をほしがる販売店に卸すような感覚で 歯医者に直接商品を売ろうとしている。営業に行っても「買ってほしい」という意思を伝えられずニラメッコをして帰ってきている状態だ。当事業部は東京にしかないので部長は東京にいるのが当然だが 蒲郡から離れようとしない。普段東京での営業会議に出ても 声ひとつ出さずにただ座っているだけの人だが 先日怒りの頂点に達したのか「赤い文字」で書いたメールを送ってきた。内容は「東京事業部の人たちは皆~」と自分の部下をひとくくりにして 自分とは別と線引きをした発言をしていた。事業部長の籍があるのは東京だが 東京の所属であるという意識が全くないことが明らかになった発言だった。
部長不在の東京事業所は 皆がそれぞれ様々な方向を向いて仕事をしている 通常なかなか見られない光景の見られない会社だ。
会社に入ってもうすぐ4カ月になる。12月までの契約だから 折り返し始めと言う感じ。
新製品発売に関するおもしろい仕事で 成果を上げることが出来る仕事だ。
ところが 経費がかかるから 売り上げが最も期待され実際に売れている地域に出張をするなという本社からの指示があり 売れる市場があるにもかかわらず売りに行くことも出来ない現状にある。
では交通費のかからない 本社のおひざ元で売るのかと言えば 全く営業活動もせず 問い合わせのあった所にへのフォローもしない状態。 本社はこの新製品を売りたいのか疑問に思う。
新製品を売るからには先行投資は仕方がない。社長の息子である部長は良い商品であれば売れるとでも思っているのか。良い商品であっても売れない商品は世の中に山ほどある。逆に宣伝が上手く 商品はさほど良くなくてもイメージで売れているものはたくさんある。
従来にない新製品 発売後半年もたっていない今、経費を抑えろ。出張に行くな。田舎にある本社の住所が書いてある茶封筒に小さなゴム印を押して使えという。新商品の名前も商品の名前も何も書いていないものだ。
新製品のある事業部があり 事業を展開していることもあからさまにしない会社。新製品が出たことを誰が知ろうか。そしてどうやって売ろうというのか。まず本社で売る姿勢と実績をを見せてほしいものだ。
ということで 派遣で来ている人は勤務時間を削減するように言われているが 5時間は働きたいと言って 私と同じカタログにシールを貼る仕事をしている。時給2千円という高額をもらっていて、時間稼ぎにそのような仕事をして恥ずかしくないのか。常識を疑う。
経費削減と言いながら 即戦力の無い 勤務時間中に仕事をせず友人とメールをしたり会社の携帯で海外に電話をしているような20代の中途入社の 正社員をゾロゾロと入社させているような人事。 ますますわけがわからない。とにかく私も経費の削減の対象として12月にはこの会社を去らなければならない可能性が非常に高くなっている。師走に仕事を探すのは至難の業。このご時世に年明け早々に仕事があるわけもない。次の仕事を早めに探して転職する方が得策なのではないかと考え始めている。
仕事の経験からも 真面目さからも パートの私の方が経験を積んでいる分利用価値が高いし、新人よりも価値がありますよ~(笑)と声だかに言いたい今日この頃である。
今まで おいしいと言われるお店のボルシチを何回も食べてきたが 神田小川町にあるサフランほどおいしいボルシチをお店で食べたことが無い。
通常赤いトマト色のボルシチだが かわいいピンク色をしたボルシチで美しい色合いにまず見た目で驚き 口に入れてその絶妙な味のバランスに驚き ハンバーグなどがついたランチで千円と ここら辺ではお値段が高い方だが(神保町近辺はワンコイン前後で食べられるお店、老舗が多く、味もボリュームもたっぷりで非常に満足する土地柄)お値打ちなことに驚かされる。
間口の狭いビルの地下にある。狭い螺旋する階段を下りるので 足元には気をつけて。
店内も非常に狭く 席に座るのに スタッフがテーブルを引いて奥に女性を入れ テーブルを押した後に手前に男性を座らせるといったほどサービスも良いが 狭いお店だ。つまり帰りも同じで、後に座った通路側の男性は先に立ち お会計の用意をしている間に女性のテーブルを引いてもらい通路に出るといった寸法。 行く相手によって 案内され方によっては 通路側に座った方が支払いを店側から容赦なく強制される(?)ような気持ちにさせられるかもしれないのでご注意・ご覚悟を。(笑)
冗談はともあれ とてもおいしいお店なので大事な方をご招待するのはうってつけの場所。お連れした方の株が上がること間違いなし。
表通りから少しだけ裏には行ったところにある。行きすぎにご注意くださいませ。
(リンクはこちら http://www.geocities.jp/nvexlog/gourmet/sarafan/
ロシア料理 サラファン
千代田区神田小川町3-10-3B1F
03-3292ー0480
地下鉄千代田線 新御茶ノ水駅から徒歩4分
地下鉄半蔵門線 神保町 から徒歩4分
私はのんびりと ぼよよ~ん と泳いでいるマンボーが好き。泳いでいる姿、からだ全体、顔、目、口 なんとも言えない魅力がある。マンボーを見ていると 悩みなんか無いのだろうなと勝手な想像をしながら その姿を微笑んで眺めているのが大好きだ。
そんなマンボーの姿を見られるのが 大阪の海遊館。回りこんで見ることが出来る世界最大級の水槽なので 泳いでいる魚を追いかけながら見ることが出来て 様々な角度から楽しむことが出来る。
(リンクはこちら http://www.google.co.jp/search?q=大阪 海遊館 &sourceid=navclient-ff&ie=UTF-8&rlz=1B3GGGL_jaJP267JP267)
因みに 私はマンボーは見るだけではなく 食べるのも大好き。水分の多い深海魚で独特の歯触りがある。捕れたその日に食べないと水の塊のような身なので水分が抜けててしまっておいしくない。だから海の近くでしか流通していない珍味だ。珍味と言えばマンボーの肝がこれも珍味で 肝をつけながらマンボーのお刺身を食べるのがお薦め。
海からみた江の島(海上保安庁 うみかぜから撮影)
夏になると暑いさなか行きたくなるのが海。しかしショッパイ水と砂が身体について嫌だという人も少なくないだろう。気軽に海を楽しめるのが水族館。冷房のしっかりきいた水族館の中にいると 自分も水の中にいるような錯覚を起こす。大きな美しく磨かれが水槽の前に経つと 魚と一緒に泳いでいる気分になる。
夏の時期だと 海水浴をした後に日焼けしてほてった体を新江の島水族館で冷やして帰るのも良いだろう。水中。陸上と海を2回楽しみたい欲張り派にはお薦めだ。
また、ゆったり派には 朝早く入館してすいている水族館がお薦め。ひとり占め気分で お魚と2ショットで記念撮影出来るチャンスも大いにある。
東京・新宿から片瀬江の島までは 小田急線で610円 1時間半たらず到着だ。駅から徒歩3分。海風に吹かれ夏気分を満喫しながら歩ける距離だ。
大きな水槽は勿論、30年あまり研究しているクラゲの展示は美しく とにかく見もの。お薦めだ。
欲張り派には 朝から晩まで楽しめるスポットだが 色々なショーもあるので出来れば朝からゆっくりと回るのがお薦めだ。
例えば小田急線の出発駅から往復切符を購入すると
新江の島水族館の入場料 大人2000円 小学生1000円 が10%オフになりお得。
(リンクはこちらhttp://www.enosui.com/basicinfo.html)
是非 この夏は新江の島水族館に。
デートにもおすすめ。ただし、夏休み中は小学生以下のこどもが多いことを覚悟してね。
東京高田馬場に200円台で食べられるうどん屋「うどんウエスト」があるらしい。知り合いがよく行っている店。ところが町田市忠生にも同様の店がある。
かきあげうどんでたしか480円で値段では高田馬場よりも高いが その分全体的に量的ボリュームがあるようだ。また馬場では桜エビタイプのエビが入っているが町田では小さめのエビが入っていて ランクアップしている。全体的にも町田の方がランクアップしている。
高田馬場の場合はサラリーマンや学生向きの立ち食いそば屋感覚で、町田の場合は郊外型でファミリーレストラン感覚を狙っているようだ。ターゲットの客層が異なるのか 町田の方が全てが少しずつ上質のようだ。
向こうが透けて見えそうな感じの半透明の美しい麺で 柔らかいけれどもコシがあり だしのよくきいた薄口しょうゆのおつゆが特徴。
お店の中に「博多の人はラーメンよりもうどんに懐かしさを感じる」というようなことが書いてあり、意外にも博多はラーメンではなくうどんの方が有名なのかと、九州に足を踏み入れたことのない私は九州・博多というところにとても興味がわいたのだった。
1週間ほど前に肋骨をぶつけて いためた。
当日はそうでもなかったが 徐々に痛みが増し
地下鉄の階段を上り息があがってくると痛んだり 横になると痛んだり。
勿論 くしゃみや咳でもズシンとくる痛み。
おもしろいことに ぶつけたところも痛むが 肋骨の他の部分も痛むからおかしなものだ。
他の場所を打ったのだったかと自分の記憶を疑ってしまうほど。
整形外科で診てもらったが エックス線には損傷した様子はうつっていない。
しかし 肋骨というのはカーブしているので映す角度が難しいらしく
様子をみることになった。
骨折などしていると 息も出来ないほど痛いそうだ。
打撲だけでも3週間は痛むらしい。
そういえば 介護中に父がベッドから滑り落ちてベッドと狭い柵の間に挟まったことがあった。
当時挟まったときにはわからなかったが 半年後ぐらいだったか肺炎でエックス線を撮った時に骨折して治った後があったと 市民病院の救急のドクターから報告があった。
父は私からみても 本人からしても何が何だかわからない状態だったので 伝えなかったのか伝えられなかったのか迷惑をかけると思い言えなかったのか・・・滑り落ちた時もその後もかなり痛かったことだろうと思う。かわいそうなことをしたものだ。
本当のところ 見えないところが骨折しているのかもわからないので
重いものを持たず 激しい動きもせず(実際のところは動きたくても痛くて動けないのだが)
静かに毎日を過ごしている。
そのせいではないだろうが、最近は休日になると特にスッキリとせず
毎食後に必ず2時間ほど横になり眠っている。
よく考えると1日12時間は眠っていることになる。
こんなお気楽な日が来るとは 3年前までは考えられなかった夢のような生活。
身体がだるいのは辛いが 今日も幸せな1日が終わろうとしている。
SNOOPY in Ginza ”東京再発見”
銀座三越にて スヌーピーと仲間たちが東京の新旧名所を巡るらしい。
新旧名所とは 雷門、歌舞伎座、東京タワー、レインボーブリッジなど。
猛暑の中 涼しいデパートの中で1日を過ごすのもたまには良い。
避暑地気分で東京見物。いかがでしょう。
私は中学生のころからスヌーピーに夢中だったので かれこれ40年の付き合いになる。
それにも関わらず恒例というこのイベントを今まで知らなかった。
楽しみを逃してしていた。
暑いさなかではあるが 中学生気分に戻り自分の為に楽しむ時間を過ごしたい。
仕事帰りにでも十分楽しめると思う。是非訪れてみたい。
各名所に訪れたスヌーピーと仲間たちをデザインしたオリジナルグッズもあるそうで 楽しみだ。
帰りには東京みやげ・銀座みやげを買って帰宅し 1日を振り返り満喫したい。
銀座三越 SNOOPY in Ginza
会期:8月5日(水)~17日(月)
詳しくは以下にどうぞ。
(リンクはこちらhttp://ginza.mitsukoshi.co.jp/snoopy.html)
ハローワークの求人に電車好きには一石二鳥の求人があったのでご紹介する。
「新幹線電車の清掃 パート労働者 1,050円 就業時間1) 9:00~12:30 2) 9:10~12:40
土日祝/毎週 品川駅 東京都品川区 」
私は子どもの頃から20年間JR線の近くに住んでいたこともあり、DNAの中に刷り込まれた感じで電車のガタンガタンという音を聴いているだけで落ち着く。何でもとりあえずやってみたい方なので「掃除の仕事」というのには少々抵抗はあるが 新幹線 ということで興味がある。
興味のある方は是非パソコンから検索してハローワークに行ってください。1時間ぐらい待つことを覚悟して。
わあ~ 空いっぱいに広がる花火!!
今日は海の日。天候にも恵まれ あちらこちらの海水浴場はにぎわっている。
静岡県伊東市では今年(2009年)も花火大会が行われる。
7月は30日(木)と31日(金)の20時半から21時まで打ち上げられる。
8月10日(月)の安針祭では20時から1時間にわたりと13000発もの打ち上げ花火やスターマインが次から次へと打ち上げられる。
8月22日(土)20時半からは打ち上げ花火1500 手筒花火50本が打ち上げられる。手筒花火とは裸の男たちが火のついた大きな筒の花火を担いで美しさを競うもので、力強い男たちの姿は勇壮である。
8月25日(火)とびっきり花火大会と銘打って20時半から21時まで 早打ち、スターマインなど1500発が打ち上げられる。
以上は伊東駅から徒歩10分程度のところにあるオレンジビーチで行われるものだ。
その他に オレンジビーチ付近では 灯篭流し、太鼓が8月8,9日に行われる。
また伊東駅付近だけでなく 同じ伊東市内だが伊東駅から少し離れたビーチでも花火大会が行われる。 詳しくは伊東市観光協会のサイトで調べてお出かけください。
(リンクはこちら http://www.itospa.com/event09/09-hanabi.html)
伊東駅からは直通バスで5分、 オレンジヒーチから徒歩15分ぐらいのところに道の駅 伊東マリンタウンがある。
グルメ、ショッピング、海辺の散歩、クルージング、スパ とあらゆる年齢層が楽しめるスポット。(リンクはこちら http://www.ito-marinetown.co.jp/)
車では東京方面からは伊豆半島に入りトンネルや山道が続く国道135号だが やっと広い道に出て緊張もほどけ 我慢していたトイレや疲れを思い出しちょっと休みたくなる位置にあるスポット。駐車場はたっぷりあるので ゴールデンウィーク以外は夏休みでも待つことなく入ることが出来るので安心。
マリンタウンの手前のサンハトヤ付近の椰子の木の植わった南国気分たっぷりのスポットが近くなったら しばしの間、再び緊張しましょう。 この区間は解放感から車のスピードを上げたくなりますが、パトライトをのせた白と黒の車が潜んでいるかもしれません。お気をつけくださいね。
伊豆半島の入り口にある伊東は近場で旅行気分が楽しめておすすめです。
今年の夏は高速料金も割引でお得です。伊東に是非遊びにいらしてください。
おいしい海の幸、きれいな海、空、空気で リフレッシュ出来ること間違いありません。
エイサーからエネルギーをもらおう
夏と言えば沖縄。
東京・新宿東口に沖縄がやってくる。
2009新宿エイサーまつり(リンクはこちら http://shinjuku-eisa.jp/)
2009年7月25日 13時半から21時まで行われる。
会場は全6会場
○13時半から18時頃までは
アルタ前と新宿高野・新宿中村屋前、三越アルコット前、伊勢丹・マルイ本館前で。
○18時から21時頃までは
双葉通りと歌舞伎町シネマシティ広場で 行われる。
また7月22日(水)~27日(月)の間 大沖縄展 が伊勢丹新宿本館6階・催事場にて行われる。
リンクはこちら http://www.isetan.co.jp/icm2/jsp/store/shinjuku/event/0907okinawa/index.jsp
今年は沖縄に行けない人も 沖縄に行ったことのない人も 伊勢丹新宿店で涼みながら
沖縄ならではの美味・工芸品・ファッションで気分を盛り上げるのも良いだろう。
因みに 私は ちんすこう が大好き。
最近はあちらこちらで売っているが ちんすこう をみつけると必ず買ってしまう。
沖縄の食べ物は独特でおもしろくて おいしいものもが多い。
気になるものがあったら 買ってこようと思っている。
たのしみ~。
友人に素敵なお蕎麦屋さんに連れて行ってもらった。
お店の名前は 手打ちそば くりはらサイトはこちら ac.auone-net.jp/~kurihara。
神奈川県秦野市にある。十割そばでおいしいお蕎麦屋さんだ。
何台か分の駐車場がお店の前にあり お店の玄関横には昔の農機具のようなものが置いてある。
お店の中にも昔の生活道具のようなものが並べてあり お店の雰囲気づくりに一躍かっている。
出てくるおそばも食事も勿論おいしいが、さすが秦野という土地柄 茹で落花生が出てきて これがまたおいしい。茹で落花生に目がない私は益々感激。
ここで泊っていきたいと思うほどくつろげるお店だ。
平日の昼間は女性同士のランチにもってこい。
休日にはドライブがてら家族連れで行くのも楽しいだろう。
ドライブと言えば その時に連れて行ってもらった
神奈川県立秦野戸川公園 サイトはこちら kanagawa-park.or.jp/hadanotokawa/。
少し足を伸ばしていけるところだ。
おすすめはたくさんあるが 私の一番のおすすめはとても大きな吊り橋だ。そして後ろに構える丹沢の山々。
その景色は私を包み込み ちっぽけなことに思い悩んでいることを恥ずかしく思わせるほど雄大なものだ。つり橋の下のにきれいな冷たい水の川は水無川で水遊びも出来る。
その並びにはバーベキュー広場もあり これからの季節には家族や友人と1日中楽しめる素晴らしいところだ。
近場で大自然の楽しめるお薦めのポイントだ。
厚生労働省の研究班は白血球の遺伝子がストレスで変化することに着目したようだ。神経伝達物質や免役などの関連する24の遺伝子がうつ病患者と健常者で異なる働き方が異なることがわかったようだ。そしてうつ病患者の83%、健常者の92%で特定の遺伝子がつきとめた通りに反応し正しく判定できたようだ。
血液2.5ミリリットルという少量で診断できるという。
また白血球の遺伝子の変化とうつ病の原因とされる脳内の変化との関係がわかれば、原因究明にもつながるようで期待されている。
女性のみならず男性にも更年期があると最近では言われているが、更年期と漠然と言われる症状についても今後原因究明、治療方法の開発につながることだろう。
うつ病は医師が患者と面接し、症状から診断しているが他の病気との境目があいまいな例も多く、専門医でも診断に迷うようだ。
私の父もうつ状態がひどく、同居していて生活がなりたたないほどひどかった。うつ病なのかと思いクリニックに行くと「持病の症状から来るうつもあるかもしれないけれども、肺炎でも同様な症状になることがある」と言われはっきりした診断は出ず薬も出なかった覚えがある。しばらくしてエックス線で診断をしてもらったところ肺炎だった。
今回厚生労働省の研究班が開発した、うつ病かどうかを診断する血液検査はうつ病患者と健常者で白血球の遺伝子の反応が微妙に異なることを利用したもののようだ。問診と併せて数値化できる簡便な診断方法が使えれば、患者の見逃しが減ると期待されているようだ。
数年後の実用化を目指すということで、これでうつ病の見逃しだけでなく、他の病気の見逃しを防ぐことが出来ることだろう。
昨日は会社の新入社員歓迎会だった。歓迎会の前に男性陣が何やら長時間話し合っていた。
会議から出てきて 「女性がトイレに行きやすいようにレイアウトの変更をする」という主旨の話が第一声だった。入社して2か月、交渉して1ヶ月半。粘り強く交渉してきた成果だ。
「トイレごときに行くだけのことでレイアウト変更までする必要はない。馬鹿げている。」と最後まで主張していた65歳以上の男性が1人いたが、納得しないまま 「女性入社に関する配慮」という側面で本社からの圧力もかかり 押し切られた形でレイアウト変更がなされた。
これまで入社から2ヶ月間は、トイレ前で会議や来客対応をしていたのでそのような時にはトイレを我慢せざるを得ない状況だった。しかし今日から会議中でも来客でもが遠慮なくトイレに行けるようになった。犬やネコでも家の中でトイレをする時代。やっと犬やネコと同じレベルになった。今後は男女別トイレになれば、世間なみの職場になると思う。
この1ヶ月半はトイレに行きにくい状況に悩み かなりのパワーを注いできた。あわせて喫煙場所の変更をお願いして事務所と同じフロアに喫煙場所があったが喫煙場所の変更もお願いして、最近では徹底されてきた。残念ながら私は「嫌煙者で自分の趣味を唱えている」と思われているようだ。これからはイメージを変えるような行動に心がけたいと思う。
先日 新聞に ストレスや疲労が引き金で 寝言を言うようになるという記事があった。
大人になって常習的にはっきり寝言を言うようになった場合は 強いストレスにさらされている可能性があるという。
そういえば 私の父は寝言がすごかった。特に 高齢になってからが寝言が頻繁になった。
大声で怒鳴り、隣の部屋に寝ていて 目が覚めるほど大声だった。
この症状は健康な高齢者の0.5%に見られるという。 この背後にはパーキンソンや認知症などの神経疾患が隠れていることもあるようだ。 そういえば、身体が動きにくくなってから 夜中によく大声を出していた。
今になれば 「そういうことだったのか」 ということが 少しずつ出てくる今日この頃。
父のことを思い出すのも、同じ年ごろの男性を見るのも嫌だった時期もあったが
こういった新聞記事も 父を思い出し こころの傷を癒してくれるものになった。
やっと 父の介護・死にまつわることに こころの整理がついたのだが 先週、家族ぐるみで付き合っている友達が亡くなった。自死である。
2年ぐらい前から更年期のような兆候があった。そこにこのところの不況で 親戚のやっている会社が廃業をしたため そこで働いていた友人は失業してしまった。50歳代後半の男性である。 ハローワークに行っても就職口の無い状態がずっと続いていた。
自死の家族のケアは難しく 急に家族を亡くしたことや理由が不明解なことが家族のこころを悩ませると言う。彼の妻もかなり混乱していた。せめての救いは、システム手帳に緻密に書かれた遺書である。
家族は遺書に書かれたとおりに 生きていくことになる。
我々のことを一番に思ってくれていた友人。今後もその家族を見守っていこうと思っている。
2年ほど前に 仕事を始めてみたが こころが安定していないことが災いして 書類の短い文章を読んでも頭に入ってこない、理解できない状態で せっかく就いた仕事を辞めざるを得なかった。
書類を見ると まず焦点が定まらず キョロキョロと動き 何度も同じところを読んだり 字がぼやけて見えたり。パソコンの中の文字も 家なら読めるのに仕事場に行くと読めない状態だった。
ここ2週間ほど前から 仕事を始めた。本格的に始動していない仕事なので これから忙しくなったら私の体調もどうなるかわからないが とりあえず今のところ 書類の文字も読めるしパソコンの文字も読める。
3カ月ぐらい前から 体を動かすことを積極的に始めてから睡眠がよくとれ、体調もとても良くなり メンタルクリニックで貰っている睡眠薬も 日中の薬も飲まなくて済むようになった。ドクターの「体を積極的に動かして」の言葉に背中を押してもらい 今はメンタルクリニックとも少し距離が置けるようになった。
客観的に父の病状を懐かしく思えるということ自体 復帰してきている証拠だと思う。
薬を飲むことを嫌って飲まないわけではない。しかしメンタルクリニック自体独特の雰囲気で クリニックに通院すること自体 今の私には少々苦痛になってきた。
更年期も心配だが 様子をみながら 今後の対処を考えたいと思えるようになった。
あれだけ 老人の姿・映像を見ると介護のことを思い出して 具合が悪くなっていたのに。 先日 老人施設での老人が食事をする様子を見て 父と同じ食べ方をしていると思い 父を見ているようで とても懐かしくしげしげとその映像を見た。
後半の父は背筋が横に弱り斜めに傾き 指や手が動きにくくなり 自分の口にフォークを持って行きにくくなり 口の方が食べ物を迎えに行くような状態だった。その様子を見るのがなんとも辛く 情けないと言うのか妙な感情を持ち 食事風景を見るのは嫌だった私が その様子を懐かしく思い 見入っているのだから不思議なものだ。 時が解決したのか。
だから 介護が終わった人は 「今は辛いけれども 一時のことだから」と慰めの言葉をかけるのだろう。
そんなことを言っても 大変な時は何を言われても大変なわけで あまり役に立たないけれど 「今は本当に大変ですよね」 とひとこと言ってくれたら かなり救われるんだけれども。
今更ながら そういう言葉をかけてくれる ケアマネージャーだったら どれだけこころが楽だったかとも思う。父の様子は懐かしいと思えるようになっても 介護にまつわる周辺の人の心無い言葉で傷ついたこころは いまだ癒えていない。
清水由紀子さんがお父様の墓前で自殺されてからしばらく経ちますが 彼女の置かれていた境遇から推測して 彼女の気持ちがわかるような気がします。
介護は抱え込まないでと言われても 抱え込まなければ介護は出来ません。
満足した介護を受けてもらうには それぐらいしなければ出来ません。
命を絶つまで追い込ませてしまうのは良いこととは言えませんが
テレビに出ると「母に○○させたい」という言葉を必ず1回は発言されるほどお母様思いの由紀子ちゃん。私も 同じような気持ちを持っていたこともあり その気持ちが本当によくわかります。
ある意味、彼女にとっては本望で幸せだったのではないかとも思うのです。
色々なことがわからなくなったお母様のようですが そんなお母様を直視するのは本当につらかったと思います。
出来るだけのことはして差し上げた挙句の彼女の行動だと思われ 「お疲れさまでした」と声をかけて差し上げ 今までのことを親孝行を褒めて差し上げたいと思います。
ゆっくり休んでくださいね。由紀子ちゃん。(*^_^*)
介護を頑張りすぎた結果 お年をめされた方を見るのも苦しかった私ですが 昨日変化がありました。
ビルのドアですれ違った老人に 気持良くドアを開けて差し上げている私がいたのです。
疲れ果てた自分を払しょくするために始めたダンスの発表会の準備に自分の時間を全て注いだことが良かったのかもしれません。このような機会は後にも先にも今回だけだと思い かなりのエネルギーを費やしました。
親の面倒をみたり介護をしているときはそこまで自分に時間を費やすということは出来なかったので 大学以来30年ぶりぐらいにものごとに集中しました。自分のために使う時間というのはこんなに至福の時なのかと感動しました。もうしばらく自分のために時間を使って 介護というのものを当事者の立場だけではなく少し離れたところから客観的に見てみるのも こころの整理には良いのかもしれないと思う今日この頃です。
腹巻とスパッツは冬のマストアイテムだ。本当に温かい。私は何年も愛用している。考えてみれば 晩年寒がっていた父に腹巻をさせていなかった。腹巻をしてあげればもっと温かかったのにと思う。
近くの衣料品店に行ったら 寅さん型の二重になった介護用腹巻が売っていた。 腹巻は一般的に足元からはくように身につける。(あるいは頭の方からかぶる人はいる?) 父は体が曲がってきていたので腹巻をするのは容易なことではなかったな・・・。せっかく思いついたのだから身につけやすい腹巻を考案してみようかしら。
認知症の人同士が介護することを認認介護というらしい。いたましい話だが、どこでおきてもおかしくない話だ。ご夫婦で認知症があるため、お互いにストレスがたまり一気に進む。また進めば進むほどSOSが出せないために益々進んでしまうようだ。認知症が介護保険に進むのは、かなり進んでいった状態で見放された状態だ。デイサービス、地域包括支援センター、ケアマネージャーが関わっていても、単独での関わりでは見落としをおこす。協働、連携のケアが本当に必要だ。
子どもも夫婦でいるから大丈夫だろうということで、ことの重大性に気がつかない傾向にある。実際にはお互いに認知症であるがために、具合が悪くてもどこに連絡することも出来ない。夫の両親は健在だが、義母の方がもの忘れについて少し不安な部分がある。しかし二人揃っているので何とか生活出来ている状況のように私は感じる。夫にその旨を言っても「大丈夫!」のひとこと。実の子どもが大丈夫だというのに、私が下手に入り込んで妄想?が始まり「何がなくなった、何を取られた」と言われては本末転倒。嫁の介入の塩梅が難しい。
夫婦での認認介護の周囲からの協働、連携のケアが必要だが 介護は 介護される側も介護する側も忍耐が必要で 忍忍介護で ここにも協働、連携のケアを施してもらいたい。
先日まで働いていた会社の同僚4人(全員がつい最近辞めた)と就職先について2時間ほど議論をした。
50歳を過ぎて就職活動をしても 15年以上仕事のブランクがあるということで落とされる。
一人はお子さんの体調がすぐれない期間があり パートを何件か繋げて10年以上働いているが働き口が無いという。
私だけかと思っていたら 同じ年頃の友人も皆落とされっぱなしとのことだった。
もう一人は教員免許もあり教員をしていたこともあり 図書館司書 学芸員、何の機会だかわからないが機械の一人は運転免許も持っている。おまけに大学院にまでいって考古学の勉強もして研究室で働いていたこともある。そんな優秀な彼女でさえ 何回履歴書を出しても 何回面談に行っても落とされる。面談にまでたどりつかないこともしばしばで 我々残り3人と同じ状況。35歳ぐらいのときであれば、これだけ資格があればどこでも就職できたのにとぼやいていた。
「年齢」と「継続した仕事がない」ということがネックだという結論になった。「今まで培った人間関係、ネットワークでその人たちの能力をコーディネイトして起業する」というのも一つの手だという話にもなった。
一方求人の多いのは介護職と 皆口をそろえて言う。そして続けて出てくる言葉は「ヘルパー関係だけはやりたくない」と。 偶然私たちはヘルパーへの就職を望まなかったわけだが、働き口が無いからヘルパーや介護職につこうという人も多いと思われる。先日の「派遣が切られた人の受け入れ口」という話も同様だが、もっともっと志を高く持って介護施設に就職して丁寧な質の高い介護をしてもらいたい。それはショートで親を預けた経験。ヘルパーの資格のために実習に入った経験からだ。それには社会的に認められた仕事となるように。「皆が嫌がることをよくするわね」という尊敬の念ではなく、他人の命を預かる、尊厳を守る素晴らしい仕事についていると褒められるような地位に格上げして 医者と同様 命を預かる仕事なのだからのように高給にできないものか。 厚労省の舛添さんに是非 介護職の社会的地位の向上のためのアクションをお願いしたい。
短期で入ったアルバイト先に 外国人留学生がいた。
祖国で学んできた日本語が古くて 日本では全く役に立たないという。
たしかに 「うざい」とか「やばい(最近はすごく良いという意味に使うようだが)」「~じゃん」という言葉は当然のことながら祖国の日本語の先生は教えないだろうし、もしかしたらそのような言葉あるいは言葉の意味も知らないかもしれない。
一方 外国人による老人介護が始まった。
祖国では看護師ということで とてもこころのこもったお世話をしているように映像から見受けられた。
1年間 日本語を学んで現場に出たら 習ってきた日本語と全く違う言葉ばかりだという。私は50代前半だが 私の親は一人は大正生まれでもう一人は昭和生まれ。この二人の間でも言葉は違っていた。大正生まれの親は「皇居」のことを「宮城(きゅうじょう)」と言っていた。二人の間の年齢差は10年あるかないかの差しかないのに使う言葉が違う。
ある場面で「かしこそうな顔をしている」と言われたら「かしこい??どういう意味??」と言ってパニックになっていた。生活習慣はもちろんだが 言葉の壁は大きい。
その上 3年以内に介護士の試験にパスしないと日本では働けないという。介護の世界はどういうわけだか難しい言葉が多い。たとえばベッドから車いすに移動するのを「移乗」と言ったり、日本人であっても感じの羅列で意味不明の言葉が多いように思う。その意味不明の言葉を日本人であっても仕事をしながら勉強して意味を理解して暗記して合格するのは並大抵なことではない。政府は3年後までにに介護士として自立した人を養成して輩出するつもりらしいが大変なことに乗り出してしまったものだ。その分の予算で時給と地位をあげるアクションをして 私のようにヘルパーの資格を持っているペーパーヘルパーを呼び起こす手段を考えた方が確実なプランだったのではないか。3年後が心配だ。
今までは 「老人」イコール「ボランティア」として その活動を美化してきた日本の風土・体制にあるのだと思う。これからますます増える団塊の世代の方々が正真正銘の老人に仲間入りした時にも ボランティアがどうのこうのと言っているうちは 介護の世界の改革は進まないだろう。
今の団塊の世代の人たちは それ以下の世代に比べてボランティアというものに意欲的のように思う。それでも回っていかない時代に今現在突入しているのだから 今のうちに大きな立て直しをしないと 医療で延命した老人があふれ、 施設にはお世話をする人がほとんどいない状態で・・・大きな改革をする勇気のあるやる気のある政治家に一刻も早く改革してもらいたい。
日本テレビで介護現場を扱っていた。
かの有名な しおじい が在宅で介護をしている人が外でアルバイトをするより 在宅で介護をしている人に報酬を出せば家で介護をする人も増えるだろう。現場では介護員が不足しているが在宅が増えて実質介護員の不足が補えるのではないかという話だった。
またある人は(誰だっったか名前も顔も忘れてしまった) 相続の際に介護した人もしない人も平等に分けるという今の相続に関する法律にも問題がある。介護をした人を優遇するような法律に変えるべきだとも言っていた。
たしかに。おまけに相続税も軽減するとか何かあってもよいのかもしれない。
ちょっと気になったのは しおじいは現役バリバリの老人だからか 切羽詰まったものを感じた。そう感じたのは私だけだろうか。
介護施設に預けると人で不足のためにオムツをさせられるが オムツにするがために益々ケアに時間がかかるということもあるのではないだろうか。オムツにするからオムツ交換に時間がかかり 寝たきりも作る。車いすに座っていても交流する人である介護員不足だからを話すこともしないから 頭がはっきりしなくり こころが内に向くから寝たきりになる。寝たきりになるから褥瘡などのケアに手間がかかる。うちの父を施設に預けていたらこんな悪のスパイラルになっていたと思う。 実際、ショートに預けるのは出来るだけ短くしてせいぜい長くて二泊にしていたが、それでもQOLがダウンして帰ってきていた。話す相手がいないとか オムツをさせられたとか もう不満がいっぱいで姥捨て山にでも捨てられた気分だったのではないかと思う。
私もヘルパー二級の資格は持っているが 食事介助や話し相手は出来るが それ以外のトイレ介助などもろもろは毎日毎日1日中十分にやってきて もうやりたくない。うんざりだ。50歳を過ぎて就職口があるのは介護員ぐらいしかないが こんな私でも活躍できる職種を作ってくれれば もしかしたら介護員として就職するかもしれない。
食事介助などはボランティアあるいはボランティアのようなおまけの業務として支えられている傾向があると思われるが 尊厳をもった食事と排泄を行うことは人間の最低の権利である。ましてやこれからますます老人が増える中で ボランティアで支えるというご都合主義の政府の政策には疑問を感じる。孫元、権利を守るためには ボランティアではなくしっかりと責任をもったケア、持続可能なケアを考えるべきだと思う。
3年前の2月家族の用事で預けてショートステイに預けていた父が肺炎になり 緊急に入院した。早いものだ。
その数か月前にショートステイから がらがら声で帰ってきた。その頃はショートステイに行くと何やら文句ばかり言って帰ってきていて 大声で怒鳴ったというような話をしていたので怒鳴りすぎて声をからして帰ってきたのかと思っていた。しかし今考えると あの時に肺炎になりはじめていたのかもしれない。
またショートステイから帰って鼻をかむとよくティッシュが黒くなっていた。空気が汚れているのだろう。その上 口腔ケアも十分でないため 肺炎を起こしやすい状況にあったのではないだろうか。 口腔ケアの重要性がその割に知られていないのか。それもあるだろうが 時間をかけられないという口実のもと十分な口腔ケアがなされていないのが現実でとても本末転倒で残念なことだ。
肺炎球菌ワクチンをしようと思いながら 目先の用事で先延ばしにしていたのがいけなかったのかと当時はとても後悔した。
今年はインフルエンザが猛威をふるっているようで わが家の近くの老人病院では院内感染でお年寄りが死亡している。今さらインフルエンザのワクチンをしても抗体が作られるまでには時間がかかり間に合わないが 歯と歯肉の間と舌のケア、うがい、手洗い、マスクでも予防は出来るようだ。歯ブラシに加えデンタルフロスや歯間ブラシ、舌ブラシなどを使うとより容易に念入りなケアが出来て これであれば肺炎もインフルエンザもかなり予防できる。
ミニ情報:介護をしていた当時 歯医者さんのみで扱っているバトラーの洗口液で最後に口をゆすいで仕上げをしていた。これはドラッグストアで売っているものに比べて非常にすぐれものでお勧めだ。もし興味があれば検索してみてください。
先日某大学の教授二人と某大学の職員用レストランで食事をしてきた。
メンタルケアの講座で講義をしてくださった先生だ。
先生が介護家族のメンタルケアの組織を立ち上げそろそろ活動に入るということで 私も仲間に入れていただけるかどうかの いわば面談のようなものだ。
・・・とはいえ、先生に御馳走になってきてしまったのだから 面談になるのかどうか???
2時間ものあいだ いろいろなことを話てきた。
その中で 失業者の再雇用先として 介護施設が提案されていることについて話題にあがった。
一人の先生は 介護員不足で外国からホスピビリティのある労働者を雇うのはとても良いことだが
失業したから介護施設にという安易な考えに腹が立つという話だった。
もう一人の先生は外国人介護員について特に話すことはなかったが 失業者に仕事を与えるために介護の仕事が選ばれたことには いかに政府が介護という仕事を甘くみているかということで
これでは介護全体のレベルアップはのぞめないという話でまとまった。
介護の現場は「ありがとう」をたくさん言ってもらえるところでもあり とてもやりがいのある仕事だと思う。
一方 先日 短期アルバイトに行ったときのことだ。いかにもフリーターの人は勿論、学生さん風の人、挨拶をしても恥ずかしそうに下を向いてとても初々しい人18歳ぐらいに見える30歳の女性と様々なフリーターがいた。ほぼ共通して言えるのは 責任のあることを極端に嫌う。責任のない仕事がしたいから 長期のアルバイトや正社員にはなりたくないのだと言っている人が多かったこと。
今 話題になっている失業者はフリーターの人が多いと思われるが もし 責任のあることを極端に嫌うフリーターの人たちが介護の現場に入ったら かなり混乱するだろう。介護は人の命を預かる仕事でもあり、責任がついてまわる仕事だから。
「気がついたら転んでいました」「ベッドから落ちてました」「知らないうちにどこかに行っちゃいました」・・・なーんてことはないかしら。危機管理の出来る人でないと対処も出来ないだろう。
そもそも 危機管理が出来ていれば こういう日が来るのも予想できだわけで 色々な意味で根本的に難しいのではないだろうか。
もしこれが実現したら 介護施設に預けるのも心配になります。
今日は時間を作って 図書館で借りた「学問のすゝめ 」をゆっくりと読んだ。
明治の初期に書いた本であるにも関わらず 100年以上経った現代に読んでも全く古びていない内容であったことに感銘を受けた。
一方 親は長男ではなかったこともあり故郷の親の介護や世話は一切しなかった。そんな何もしなかった親だったが 私に身の回りの世話をしてもらっているということに対しては当然と思っていたのだろう。 私に対しての怨みがたくさん記されたノートが先日みつかった。私に対する不満や「あととりにと思っていた娘は嫁に行った。そんな娘に遺産など残す必要はない。」というような内容が面々と綴られているのを見て 落胆した。私のしていた介護は何だったのか。あの時にこうしていれば良かったのかと後悔したり反省したり 自分を責める2年間は何だったのか。
そんな中で読んだ「学問のすすめ」に「人間は活動の自由を奪われると他人を怨み羨むもの」という言葉。そういえば あのノートを書き始めたころに 手足が重たくなってほとんどまっすぐに歩けない状態だったと思い そういうことも影響して書いたノートだったのかと思ったり。
なんだかんだと言っても 今更 逝った人に理由を尋ねるわけにもいかず憶測でしかない。
今日の「学問のすすめ」の読書により 自分を責めるのを止めるきっかけにしようと思い始めることが出来た。
親が亡くなってから2年3ヶ月。やっと心も落ち着き、気分の良い時には親の身の回りのものを少しずつ片付けられるようになった。
そんな中で先日は年老いてはるか昔に起こったことなのか、はるか昔のことを思い出しつつ見た夢のことなのか。わが家が引き起こしたこと(交流がなかった時期でその頃のことは何も知るはずもないし、 そのようなことはわが家に起きていなかったこと)を面々と書き記した親戚からの嫌な手紙を発見し、一つにまとめて焼却ゴミとした。(近いうちに処分しておかなければいけないが)
今日は親が記していたノートを発見した。いつも私の縫った袋に入れて枕元に置いていて、入院した時にも一言目にはそれを持ってきてくれと言って肌身離さず持っていたノートだ。あんなに具合が悪いのに最期に入院した時にも持って行っていったほど肌身離さず持っていた物だから何が書いてあるのか全く知らなかったが、私が一生懸命に病院とわが家を往復して世話をしている時も、また必死で介護をしている時も肌身離さず枕もとあるいは枕の下に置いていたそのノートにまさか私の悪口があんなに書いてあるとは。驚いた。親が元気であった時にあった出来事の見解の相違について、生々しい言葉で、親の人間性を疑うようなことが書いてあった。
私は親が亡くなってからおよそ2年間何を悩んでいたのだろう。介護をする前から 親も私を恨んでいた!なんとも言えない気持ちだ。外見上は仲の良さそうな親子だったと思うが。。。
ノートの中にこんなことが書かれていた。50年前に自分が新婚時代に購入した大事にしていた食器とスプーンを私がどこかに隠したとも記している。これは以前に言われたことがあるが それはそのあとすぐに一生懸命に探していたところバッグから出てきた。ウェストバッグがどうも重すぎるのでおかしいと思い探したら色々な小さなポケットからから数本出来てた。そのほかにも大事にしている鞄から数本数が出てきた。それでも足りないものがある。50年前に購入したもので大きな食器をのぞいては全て割れてしまったのでその旨言ったのだが「そうかな?」の一言で終わってしまったので一件落着したものだと思っていた。書いていたことを話してそのあとに消していないのか、そのあとにそういう経緯があったことを忘れて書かれたものなのかはわからないが、いずれにしろ納得していなかったのであろう。
親の具合がガクッと悪くなった一つの理由として 今なら体が弱っているので怒鳴られずに話を聞き入れてもらえると思い 母を亡くしたあと25年間の父に対する私の本当の思い、結婚を反対された時の気持ちなどをストレートにぶつけた。中でも母が亡くなってから父が「お母さんが死なずに私が死ねば良かったね」と言った時に「『お母さんとは今までよく話したけれども、お父さんが死んでいたら話すことなく死んでしまったから、話す時間があって良かった』と言ったけれども。」と言われたので「『本当はお父さんが死ねば良かったのに』と言いたかったけれども面と向かってそうは言えないからそう言ったんだ」と言ったら「そうだったのか」とガックリと肩を落としていた。それが大きな原因で具合が悪くなったのかと思い 反省するやら自分を責めるやら、言ってスッキリしたという気持ちやら複雑な心境だった。
でも親は死ぬまで親は私に対する恨み?を胸の中にしまって逝った。でもノートに残して逝った。これはやはりかなり私に恨みをもっていたのだろう。 1枚も2枚も上だったことがわかった。なにより 色々な思いがあり 一言では表現しきれないが 複雑な心境だ。
喋る相手がいなかったから ただ単にノートに記していたのだと思いたい。おまけに 私自身 人生の半分以上は過ぎた年だから 家族をがっかりさせるようなものは片付けようと思う。
プライベートが忙しく ブログがストップしていました。継続は力なり。
今年も細々とでも続けていきたいと思っています。
さて お正月に夫の実家に 我が家で未使用の背もたれのついた折りたたみ式風呂椅子を持って行ってきた。折りたたみ式風呂椅子はお風呂の洗い場に入ったが ドアが閉まらない。洗い場が広くないこともあるのだが、脱衣場からお風呂場に入る際に向こう側に押して入るドアなので 折りたたみ式風呂椅子の脚が引っ掛かってドアが閉まらないのだ。 今まで気にもしていなかったが、改めて見てみると洗い場で倒れたら助け出すことが出来ない作りになっている。 折りたたみ式のドアにするか引いて入るようなドアに変更した方が良いのではないかと 住宅改修をすすめてきた。
去年は階段に手すりを早くつけた方が良いのではないかとアドバイスをしてきたのだが まだついていない。この1年で家の外壁、屋根を塗り替え、家の中の畳と襖はきれい取り替えて手入れしていたが 肝心の階段の手すりがついていない。そんなことを言っているさなか、二階でドタンバタンという音がしていた。何かと思えば 敷いてあった布団に足が引っ掛かり転んでいたという。 二階に寝室があること自体大丈夫なのかとも思うが 階段の上り下りで自然と足を鍛えていると思えば それもよし。
自分たちの入るお墓も徒歩5分以内の所に今月には購入しようと準備をすすめている。 何をどうするつもりなのかはわからないが 近い将来のためのことを夫婦で考えているいるようだ。そんな話ばかりのお正月であった。
80歳過ぎても夫婦二人揃っているから お互いに補い合って暮らしているが 義父だけあるいは義母だけでの一人暮らしは難しい状態だ。実の親の介護が終わりやっと精神的にも落ち着いてきたところ。しばらく元気でいてもらわないと 自分の人生が不完全燃焼のまま、他人の面倒をみている間に人生が終わってしまいそうだ。義父も義母も実際には親の介護はしていない。義母は2~3ヶ月に1週間ぐらいの割合で実の母親を預かって面倒をみていた時期もあったが とても大変だということで家に帰りたがる母親を兄弟同意のもとで 住まいから2時間近くかかる山奥の老人ホームに入ってもらっていた。そんなわけで義父母たちはどのようにするつもりなのかわからないが 家を処分するにしても引き継ぐにしても そのときには 私が手伝いに来なければいけないのかと思いながら 物の多い家の中を眺めていた次第。以前に「私たちは老人ホームに入れないでね」と言われたが ではどうしたいのか。同居したいのか。意志表明はまだされていない。考えるとお正月早々憂鬱になるのでやめておこう。
いつもお正月には御馳走になり泊ってくるのだが別れ際に 「来年のことを今から言うのはどうかと思うが」という前置きがあった上で「来年は 宿をとってお正月を迎えよう」ということを言われ同意してきた。来年まではそういう目標があるので元気でいてくれるかな・・・という期待を持って帰宅をした。