がんばらない介護家族  しゃべり場 その3

2009年12月30日水曜日

介護家族 要介護者の介護 と社会の荒波(再就職先が無いし、短時間だけ預けるデイサービスを利用しているだけでも隣近所には冷たい目で見られる)と闘って本当に苦しい状態にいる。介護家族を助ける具体的なサービスも必要だし 心の中を聴いてもらえる場が必要だ。行政は介護だけではなく介護家族に対してもテコイレが必要だし、それらをボランティアで責任の無い形で賄おうとするのではなく 利用する度にお金を払ってでも 頼れる場所が欲しいと願っている人は多いと思う。介護中あるいは介護卒業生の貴重な体験を活かした介護家族へのケアを行政が行うことが今とても必要とされている。ケアマネージャーは要介護者のコーディネイタ。どちらかというと施設側の仕事で介護家族の立場に立ったケアで要介護者についてまでは出来ていないのが現状。介護家族の悲鳴に耳を傾ける場。介護家族のしゃべり場が求められている。


私の経験からも 自分の今の気持ちを言葉に出し共感してもらえるだけで 介護のストレスからかなり解放される。また明日から何とか介護を続けていこうと思えるようになる。それは知り合いの 介護経験者・介護中の知り合いも同様のことを言っているから 多くの人が同じ思いをしているはず。

昨今働く女性のワークライフバランスが叫ばれているが 行政は介護家族ワークライフバランスにも目をむけてもらいたい。


また介護家族の負担軽減に目を向けることで 介護施設に預けることが少なくなり行政の負担は軽減される。そして介護家族の経験は在宅介護者へのフォローという重要な役割の仕事が創出されることになり 介護の終わった後に路頭に迷う人も少なくなると思う。

がんばらない介護家族 しゃべり場 その2

2009年12月29日火曜日

家族構成の都合でむを得ず一人で 親の介護をしなければならない人が多いと思う。大学を卒業してからずっと働き続けてキャリアを積んできたアラフォー・アラフィフつまり40歳少し前から50歳少し過ぎの年代の人は男女雇用均等法が始まり総合職の先駆者として突き進んできた女性たちの年代。一人っ子が多くや兄弟がいても2人程度。


そのような年代の人間が 介護をしながらの仕事が難しくなり 両立をしてもたもののどちらも中途半端で体力も続かず 仕事を辞めて介護に専念。しかし決断をした時点でかなり重篤化していて坂道を転げ落ちるがごとく要介護度が上がり介護しきれなり施設に入れるようになる。また在宅で専念して看ていたけれども 看切れなくなって施設にようやく入れたので資金稼ぎに働こうと思っている人も多いはずだ。(安いところは何年ごしの順番待ち。比較的入りやすいところは最低でも1か月に20万円はかかる)

介護というものは様々なものにお金がかかる。 肌着一つでも買って着せて見たら袖繰りが工夫されていても今の体の動きには脱ぎ着がしにくいとか 大きめが良いかと思いパンツを購入したら 足回りは良いけれどもウェストの部分がブカブカで落ちてしまうとか。そのようなことで買い替えが多く無駄なものをたくさん買わなければならなくなる。介護を要する人の身の回りの物は試着なしで購入しなければならないので 本当に出費が多く仕事を辞めない方が良かったと後悔する人も多いだろう。 

一度仕事を辞めてしまうと 40~50歳前後で再就職は難しい。さて仕事につこうと思うとブランクと年齢が足かせになる。これが独身の一人っ子男性が同様の状況の場合 女性とは異なり性差による介護というものへの負担も異なるであろう。そして親が逝った後にはどうやって生きていけばよいのか。妻がいれば妻の収入で何とか生活が出来るかもしれないが。

がんばらない介護家族 しゃべり場 その1

2009年12月28日月曜日

お母様がパーキンソン病で 介護にはほとほと手を焼いている人がいる。もともとお母様とは性格が合わず 何十年も話をしてこなかったという。そこへきて介護。だからといって そりが合うわけでもないし会話も成り立たない状態で介護がとても大変だという話をしてくれた。

彼女は介護しきれなくなり お母様には現在施設に入ってもらっているという。デイサービスの車が自宅の前に来るだけでも 近所の人から介護放棄 とみられる傾向があると彼女は言う。私も同じような体験をしている。結局、近所の人にはお母様は入院中ということにして施設に入ってもらっているらしい。周囲の目はおそろしい。
よく 家族には歴史があると言われているが、自分が体験するまでその意味がわからなかった。実際に自分が介護してみると 歴史という意味が嫌なほど実感し いろいろな記憶がよみがえってくる。

要介護者を病院に連れ行くことは大きなイベントで 介護家族はその1日は 順番取りや送迎車の手配・送迎で疲れ果てる。これは在宅介護でも施設に入所していてもこの大変さは変わりは無い。
病院に連れ行った翌日は 疲れ果てて動けなくなっていたことを思い出す。病院の順番取りをしてもらえる代わりの人がいれば。あるいは要介護者の場合は順番をとらなくても診てもらえるシステムがあればと思う。

今年もまた 何をすることもなく 1年が過ぎようとしている。

今年は 不況の嵐の波をまともに受けた1年だった。

その影響から 気になることがいくつかある。
なかなか就職先が決まらないこと。6枚組の履歴書用の写真を3~4回は撮影し すべて無くなったから 履歴書は20通は出したと思う。

二つ目は 家族ぐるみでつきあっている知人が 親戚の経営している会社から急に解雇され 自死したこと。それに波及して 残された彼の妻である知人が 直前までの夫との関係・会話が原因なのではないか。なぜそのような状況を受け止められなかったのかと自分を責め悩んでいること。

三つ目は やっと就職出来たインプラント会社の売り上げ不振から 契約期間内に解雇されたこと。

来年は 安定した仕事を得たい。
そして 今年の経験を活かし 自己実現にむけて努力したい。

釈迦堂遺跡博物館に行ってきました

2009年12月14日月曜日

考古学研究所でアルバイトをしたことがきっかけで 縄文土器にはとても興味がある。
今回行ったのは 中央高速の釈迦堂のサービスエリアにある釈迦堂遺跡博物館

日本で出てきた土偶の半分がこの付近から出土したらしい。
今まで主に東京都や神奈川県から出土したものを見てきたが 山梨県付近のものは今まで見たものとまた異なる紋様であった。もちろん手作りなのだから それぞれの個性があるわけで紋様が異なるのは当然だと思うが その作り方を伝承するわけであろうから 地域ごとに特徴が出てくるのだろう。

今回見たものは人間の顔の形をしたものや蛇がとぐろを巻いたような形の把手(とって)がついたもの。また口縁が立ち上がった水煙土器(すいえんどき)があった。水煙土器は今まで本でしか見たことが無かったのでとても感動的だった。

入場料はおとな200円 こども100円。釈迦堂サービスエリアから階段で2~3フロアぐらい(?)上がったところにある釈迦堂遺跡博物館
私は 勝沼で降り 一般道および側道を使って博物館の駐車場に停めて見てきた。
国宝重要文化財を所蔵している。
子ども向けにパンフレットもたくさん用意してあり とても親しみやすい構成になっている。

駅から1分の駅前ビジネスホテルに泊まった。ベッドはセミダブル。窓は広め。トイレもついていうユニットバス、大きな窓がついている、夜景を楽しむ人にはうれしい窓。シャンプーとボディシャンプーは備え付け。ドライヤーももちろん備え付けで無料テレビももちろん無料。小さめだが冷蔵庫がついている。湯沸かしポットに湯のみが一つ。緑茶のティーバックが1つついている。インターネットは使い放題。パソコンを借りる場合は1日千円。歯ブラシ&歯磨き使い捨てシェーバー、タオルが3種類ほどついていた。これで4千円代。安いと思う。

朝食はバイキングでパンかご飯。ソーセージ、オムレツ、きんぴらごぼう、サラダ、納豆、魚のあら煮、焼き魚、アサリのお味噌汁、コーヒー・牛乳・ジュースと品数は少ないがそんなものだろう。

少し戸惑ったのが夕食だ。これもバイキング。サラダ、トリの唐揚げ、ソーセージの炒め物、ソース焼きそば、キャベツの炒め物、肉じゃがのカレー味、お麩のお吸い物。お昼はへぎ蕎麦とてんぷらだったので、もう油ものは食べたくないし、このメニュー。食べたいと思わせるものが無い。

一番おいしかったのは、お茄子のお漬物ときゅうりのお漬物。東京では見たことが無いほど大きなお茄子の丸ごとの水ナスのようなお漬物は絶品だった。きゅうりのお漬物はきゅうりをただ半分の長さぐらいに切っただけのような大きさ・形のもので、私の中ではナンバー2。海の近くなのでお刺身を期待していた知人達はずっと文句を言っていた。ホテルの団体旅行なので私は期待していなかったのが幸いした。あんなに文句を言うほど期待をしていたのか。逆に驚いた。なぜかというと、さほどお金を出していないツアーだったので私は期待していなかったから。とにかくお茄子ときゅうりのお漬物には本当に助けられた。おそらく5本ぐらいずつ食べたと思う。

帰りがけに市場に寄ったら、夕食で食べた東京で見たことも無い太い茄子ときゅうりが大安売りしていた。どうやらここらへんの特産品のようだ。思いがけないところでおいしく特産品を食べられたわけだ。