福沢諭吉 学問のすすめ

2009年1月16日金曜日

今日は時間を作って 図書館で借りた学問のすゝめをゆっくりと読んだ。
明治の初期に書いた本であるにも関わらず 100年以上経った現代に読んでも全く古びていない内容であったことに感銘を受けた。

一方 親は長男ではなかったこともあり故郷の親の介護や世話は一切しなかった。そんな何もしなかった親だったが 私に身の回りの世話をしてもらっているということに対しては当然と思っていたのだろう。 私に対しての怨みがたくさん記されたノートが先日みつかった。私に対する不満や「あととりにと思っていた娘は嫁に行った。そんな娘に遺産など残す必要はない。」というような内容が面々と綴られているのを見て 落胆した。私のしていた介護は何だったのか。あの時にこうしていれば良かったのかと後悔したり反省したり  自分を責める2年間は何だったのか。

そんな中で読んだ「学問のすすめ」「人間は活動の自由を奪われると他人を怨み羨むもの」という言葉。そういえば あのノートを書き始めたころに 手足が重たくなってほとんどまっすぐに歩けない状態だったと思い そういうことも影響して書いたノートだったのかと思ったり。
なんだかんだと言っても 今更 逝った人に理由を尋ねるわけにもいかず憶測でしかない。
今日の「学問のすすめ」の読書により 自分を責めるのを止めるきっかけにしようと思い始めることが出来た。 

これほど すれ違いだったとは↓ 

2009年1月13日火曜日

親が亡くなってから2年3ヶ月。やっと心も落ち着き、気分の良い時には親の身の回りのものを少しずつ片付けられるようになった。

そんな中で先日は年老いてはるか昔に起こったことなのか、はるか昔のことを思い出しつつ見た夢のことなのか。わが家が引き起こしたこと(交流がなかった時期でその頃のことは何も知るはずもないし、 そのようなことはわが家に起きていなかったこと)を面々と書き記した親戚からの嫌な手紙を発見し、一つにまとめて焼却ゴミとした。(近いうちに処分しておかなければいけないが)

今日は親が記していたノートを発見した。いつも私の縫った袋に入れて枕元に置いていて、入院した時にも一言目にはそれを持ってきてくれと言って肌身離さず持っていたノートだ。あんなに具合が悪いのに最期に入院した時にも持って行っていったほど肌身離さず持っていた物だから何が書いてあるのか全く知らなかったが、私が一生懸命に病院とわが家を往復して世話をしている時も、また必死で介護をしている時も肌身離さず枕もとあるいは枕の下に置いていたそのノートにまさか私の悪口があんなに書いてあるとは。驚いた。親が元気であった時にあった出来事の見解の相違について、生々しい言葉で、親の人間性を疑うようなことが書いてあった。

私は親が亡くなってからおよそ2年間何を悩んでいたのだろう。介護をする前から 親も私を恨んでいた!なんとも言えない気持ちだ。外見上は仲の良さそうな親子だったと思うが。。。
ノートの中にこんなことが書かれていた。50年前に自分が新婚時代に購入した大事にしていた食器とスプーンを私がどこかに隠したとも記している。これは以前に言われたことがあるが それはそのあとすぐに一生懸命に探していたところバッグから出てきた。ウェストバッグがどうも重すぎるのでおかしいと思い探したら色々な小さなポケットからから数本出来てた。そのほかにも大事にしている鞄から数本数が出てきた。それでも足りないものがある。50年前に購入したもので大きな食器をのぞいては全て割れてしまったのでその旨言ったのだが「そうかな?」の一言で終わってしまったので一件落着したものだと思っていた。書いていたことを話してそのあとに消していないのか、そのあとにそういう経緯があったことを忘れて書かれたものなのかはわからないが、いずれにしろ納得していなかったのであろう。

親の具合がガクッと悪くなった一つの理由として 今なら体が弱っているので怒鳴られずに話を聞き入れてもらえると思い 母を亡くしたあと25年間の父に対する私の本当の思い、結婚を反対された時の気持ちなどをストレートにぶつけた。中でも母が亡くなってから父が「お母さんが死なずに私が死ねば良かったね」と言った時に「『お母さんとは今までよく話したけれども、お父さんが死んでいたら話すことなく死んでしまったから、話す時間があって良かった』と言ったけれども。」と言われたので「『本当はお父さんが死ねば良かったのに』と言いたかったけれども面と向かってそうは言えないからそう言ったんだ」と言ったら「そうだったのか」とガックリと肩を落としていた。それが大きな原因で具合が悪くなったのかと思い 反省するやら自分を責めるやら、言ってスッキリしたという気持ちやら複雑な心境だった。

でも親は死ぬまで親は私に対する恨み?を胸の中にしまって逝った。でもノートに残して逝った。これはやはりかなり私に恨みをもっていたのだろう。 1枚も2枚も上だったことがわかった。なにより 色々な思いがあり 一言では表現しきれないが 複雑な心境だ。

喋る相手がいなかったから ただ単にノートに記していたのだと思いたい。おまけに 私自身 人生の半分以上は過ぎた年だから 家族をがっかりさせるようなものは片付けようと思う。

あけましておめでとうございます(@^^)/

2009年1月4日日曜日

プライベートが忙しく ブログがストップしていました。継続は力なり。
今年も細々とでも続けていきたいと思っています。

さて お正月に夫の実家に 我が家で未使用の背もたれのついた折りたたみ式風呂椅子を持って行ってきた。折りたたみ式風呂椅子はお風呂の洗い場に入ったが ドアが閉まらない。洗い場が広くないこともあるのだが、脱衣場からお風呂場に入る際に向こう側に押して入るドアなので 折りたたみ式風呂椅子の脚が引っ掛かってドアが閉まらないのだ。 今まで気にもしていなかったが、改めて見てみると洗い場で倒れたら助け出すことが出来ない作りになっている。 折りたたみ式のドアにするか引いて入るようなドアに変更した方が良いのではないかと 住宅改修をすすめてきた。

去年は階段に手すりを早くつけた方が良いのではないかとアドバイスをしてきたのだが まだついていない。この1年で家の外壁、屋根を塗り替え、家の中の畳と襖はきれい取り替えて手入れしていたが 肝心の階段の手すりがついていない。そんなことを言っているさなか、二階でドタンバタンという音がしていた。何かと思えば 敷いてあった布団に足が引っ掛かり転んでいたという。 二階に寝室があること自体大丈夫なのかとも思うが 階段の上り下りで自然と足を鍛えていると思えば それもよし。
自分たちの入るお墓も徒歩5分以内の所に今月には購入しようと準備をすすめている。 何をどうするつもりなのかはわからないが 近い将来のためのことを夫婦で考えているいるようだ。そんな話ばかりのお正月であった。

80歳過ぎても夫婦二人揃っているから お互いに補い合って暮らしているが  義父だけあるいは義母だけでの一人暮らしは難しい状態だ。実の親の介護が終わりやっと精神的にも落ち着いてきたところ。しばらく元気でいてもらわないと 自分の人生が不完全燃焼のまま、他人の面倒をみている間に人生が終わってしまいそうだ。義父も義母も実際には親の介護はしていない。義母は2~3ヶ月に1週間ぐらいの割合で実の母親を預かって面倒をみていた時期もあったが とても大変だということで家に帰りたがる母親を兄弟同意のもとで 住まいから2時間近くかかる山奥の老人ホームに入ってもらっていた。そんなわけで義父母たちはどのようにするつもりなのかわからないが 家を処分するにしても引き継ぐにしても そのときには 私が手伝いに来なければいけないのかと思いながら 物の多い家の中を眺めていた次第。以前に「私たちは老人ホームに入れないでね」と言われたが ではどうしたいのか。同居したいのか。意志表明はまだされていない。考えるとお正月早々憂鬱になるのでやめておこう。

いつもお正月には御馳走になり泊ってくるのだが別れ際に 「来年のことを今から言うのはどうかと思うが」という前置きがあった上で「来年は 宿をとってお正月を迎えよう」ということを言われ同意してきた。来年まではそういう目標があるので元気でいてくれるかな・・・という期待を持って帰宅をした。